70年前も暑かった
暑い夏の過ごし方を書いた後で
1945年8月15日 つまり 終戦の日の最高と最低温度をはじめて見ました
本当かどうか 調べていませんが それによると 最近の気温と大差がなかったように記憶していますが
ちゃんとメモを取っていなかったので 確かなことはわかりませんが
気象庁の こんなデーターがありました
http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/monthly_s3.php?prec_no=44&block_no=47662&year=&month=&day=&view=a2
それによると記録が残っている明治のころから東京の最高温度の平均値は30度前後あったので
最近急に暑くなったわけでもないのかなと 不思議な気がします
町が都市化し さまざまな要素ができたり 人間の基本的能力が衰えたのか 我慢が出来なくなったのか
誰かそのあたりを 論理的に解説して欲しいですね。
今年の終戦の日は例年にないほど一日中テレビの関連番組をじっくりと見ました
衆議院での 不気味な採決で あわや日本は 逆戻り との煽りがあったせいか
それとも 玉音放送のレコードの原盤が見つかり、初めて最初から聴いたせいか
これが戦後70年ということだったのかもしれません
私はもちろん戦争の体験はありませんが、 子供のころ 周りには
戦争中の体験を語る大人たちはたくさんいました
特に、父からは 何度もいやになるほど 話を聞かされ
「あーあ、またか・・・ 」 とその頃は辟易していました
誰も戦争をしたいとは思っていないんだからいいじゃん という安心感がありましたが
そうではなくなりつつある 危機感が目に見える形ではっきりしてきたのかもしれません
少なくとも戦争体験者が身近にいたという自分が、そうではない若い人たちに
何かできることを伝えなければという思いが 強まり、
まずは 事実を知ろうと てっとり早く テレビにかじりついていましたが
今まで自分は何も知らなかったのかということに 愕然としました
あんなに嫌がっていた父の戦争話も今になってみれば もっと聞いとけばよかったと
少し後悔しています
父の手帳やおぼろげな記憶をたどってみると
1920年生まれの父は 戦前働いていた 奉公先を 招集に備えて退職し
家に帰って準備をしました それは20歳のころでしょうか
戦地はインドネシアでしたが 前線というよりは 後方での事務方の仕事で
暗号の解析や連絡係のようなことをしていたようで 映画で見るような 悲惨な現場には
いなかったようです 地元の人々との交流や インドネシア料理や文化のことなど
子供のころによく聞かされました
玉音放送をどこで聴いたのか 聴かないのか それこそ 聞いたことはありませんが
8月15日になって はい終わりではなく 後始末をしたり 帰国の船を待ったりで
帰還したのは 昭和21年7月でした ほぼ1年もかかっています
考えてみれば 20代の前半をこういう中で過ごしたので 思いで話は山のようにあるはずです
生活が落ち着き 新しい家庭ができ、仕事も順調にいっていた40代のころは
戦友会によく参加し、仲の良かった戦友たちとは家族ぐるみの付き合いもしていました
まさに 父の 同窓会だったのでしょう
つづく・・・
1945年8月15日 つまり 終戦の日の最高と最低温度をはじめて見ました
本当かどうか 調べていませんが それによると 最近の気温と大差がなかったように記憶していますが
ちゃんとメモを取っていなかったので 確かなことはわかりませんが
気象庁の こんなデーターがありました
http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/monthly_s3.php?prec_no=44&block_no=47662&year=&month=&day=&view=a2
それによると記録が残っている明治のころから東京の最高温度の平均値は30度前後あったので
最近急に暑くなったわけでもないのかなと 不思議な気がします
町が都市化し さまざまな要素ができたり 人間の基本的能力が衰えたのか 我慢が出来なくなったのか
誰かそのあたりを 論理的に解説して欲しいですね。
今年の終戦の日は例年にないほど一日中テレビの関連番組をじっくりと見ました
衆議院での 不気味な採決で あわや日本は 逆戻り との煽りがあったせいか
それとも 玉音放送のレコードの原盤が見つかり、初めて最初から聴いたせいか
これが戦後70年ということだったのかもしれません
私はもちろん戦争の体験はありませんが、 子供のころ 周りには
戦争中の体験を語る大人たちはたくさんいました
特に、父からは 何度もいやになるほど 話を聞かされ
「あーあ、またか・・・ 」 とその頃は辟易していました
誰も戦争をしたいとは思っていないんだからいいじゃん という安心感がありましたが
そうではなくなりつつある 危機感が目に見える形ではっきりしてきたのかもしれません
少なくとも戦争体験者が身近にいたという自分が、そうではない若い人たちに
何かできることを伝えなければという思いが 強まり、
まずは 事実を知ろうと てっとり早く テレビにかじりついていましたが
今まで自分は何も知らなかったのかということに 愕然としました
あんなに嫌がっていた父の戦争話も今になってみれば もっと聞いとけばよかったと
少し後悔しています
父の手帳やおぼろげな記憶をたどってみると
1920年生まれの父は 戦前働いていた 奉公先を 招集に備えて退職し
家に帰って準備をしました それは20歳のころでしょうか
戦地はインドネシアでしたが 前線というよりは 後方での事務方の仕事で
暗号の解析や連絡係のようなことをしていたようで 映画で見るような 悲惨な現場には
いなかったようです 地元の人々との交流や インドネシア料理や文化のことなど
子供のころによく聞かされました
玉音放送をどこで聴いたのか 聴かないのか それこそ 聞いたことはありませんが
8月15日になって はい終わりではなく 後始末をしたり 帰国の船を待ったりで
帰還したのは 昭和21年7月でした ほぼ1年もかかっています
考えてみれば 20代の前半をこういう中で過ごしたので 思いで話は山のようにあるはずです
生活が落ち着き 新しい家庭ができ、仕事も順調にいっていた40代のころは
戦友会によく参加し、仲の良かった戦友たちとは家族ぐるみの付き合いもしていました
まさに 父の 同窓会だったのでしょう
つづく・・・
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